埼玉県生活指導研究協議会blog

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基調提案2018 「今こそ学校に対話を」

2018年度 埼玉県生活指導研究協議会基調提案 

「今こそ学校に対話を」

 

 

はじめに

 

子どもたちはよくしゃべっているのに、何もしゃべっていない気がする。職員室も同じ。話していいことしか話さず、クラスが困っているという話もしない。(高原史朗)

 

 

 子どもや教師たちはなぜこのような状況にいるのだろうか。「しゃべっているのにしゃべっていない」ということは、どういうことなのだろう。子どもたちは、重たい話題を語り合うことのないライトな関係性の中のみで生きようとしているのか。いや、そうではなく、重たい話題を避け「かるい」ことをしゃべりあう関係から、深く分かり合える新たな関係性を(無意識であっても)、したたかにつくろうとしているのか。いずれにしても、この先にあるのは、人と人との豊かな関係性なのか、当たり障りなく他者と距離をとりながら生きていくある意味、閉鎖的なライフスタイルなのか…それが問われているように思う。高原は次のように述べている。

 

せっかく面倒な話題を上手に外して、楽しくつくり上げている関係を、リアルな話題は壊すものなのかもしれません。そんな話題はどうしていいか分からないという感じなのだと思います。そんなおしゃべりなど、誰も望んでいないのです。

 だとすると、子どもたちのリアルな思いは自分の中だけにとどめられてしまうことになります。子どもたちは「本当に心配なこと・つらいこと・異論や独自の考え」のようなものを心の隅にそっと住まわせながら、周りに合わせて大騒ぎしたり笑い合ったり、行事で団結したりしています。それが身につけてきた知恵なのだと思います。しかし「自分の思い」は消えてなくなったわけではありません。それはどこかで語られることを望んでいるにちがいないと思うのです[1]

 

今までの私たちの価値観からみれば、“物足りない”むしろ“こんなことでいいのか”と思う事態が恒常化しているようにも思えるが、子どもたちが“このような現実に生きていること”を自覚する必要がある。そもそも、教師も子どもたちも、矛盾した現実の中で苦しみながらも今を懸命に生きているのだ。

いずれにしても、私たち教師は、子どもたちが他者との豊かな関わりを通して、世界とつながり、よりよい社会の形成者として成長していくことを願っている。まるで“会話はあっても対話はない”ように見える状況に、私たちはどう働きかけていけばいいのだろうか[2]。その先にどんな世界を開いていけばいいのだろうか。その鍵になるのは「対話」である。会話が言語を介した音声的なやりとりだとするならば対話とは一体何なのだろう。以下「あすなろサークル2018.1.18.」と「基調小委」で議論したことを元にこの問題を整理してみよう。

 

 対話とは

 ・表面的な言葉ではなく、中にある思いを語り合うこと

 ・ゆっくりとするもの、何度もするもの、時には時間がかかるもの

 ・結論が出ずに、ときに混乱を招くこともある

 ・「話す」よりも「聴く(耳を傾ける)」ことが大切

 ・会話がなくても(言葉を介さなくても)対話は成立する

 ・終わると「話してよかった」という安心感や「視野が広がった」という満足感がある

 

 つまり対話とは、平等な立場で(権力的な関係のないところで)、差別や偏見なく相手に向き合う行為であり、相手の中に自分と共通している部分や違う部分を見つけることで、新たな自分や価値観を生み出す営みである。そして対話とはそれを通して「希望」をエンパワメント[3]するものである。

 

 集団づくりは「討議・討論の指導」を重視してきた。その根幹にあるのが対話であり、対話が可能な教育的関係である。生活指導は、そうした対話が可能な関係を(集団づくりを通して)重層的につくることを目的としてきたとも言える。しかし今日、ゼロトレランスに依る生徒指導が主流となる中で学校の中から「対話」が消えかかっている。ゼロトレランス-zero-toleranceは寛容(例外)なき指導と訳される。それは、規則や秩序違反に対して、個人の事情や背景を考慮することなく一律に処罰を与えるものである。言い換えれば「問答無用」の思想であるために、対話の世界が消えてしまうのは必然である[4]

また「自分がどう見られているか」という気遣いの中で、自分の思いを出すことが難しくなっている現実がある。昨年の埼生研基調(2017年)は「新しい価値観に出会う~討議・討論を~」であった。この課題をより実践的に追求するために、今年度は「対話」とそのあり方に的をしぼって考えてみたい[5]

 

 

 

 

 

 

 

 

第1章 対話のない学校

 

 あすなろサークルに参加した、ある若い教師Aの話である。彼の学校では、若い教師は普段から、先輩に、「生徒とはある程度距離をおいて接しなければならない。そうしないといざというときに指導が入らなくなる」と言われているそうである。ある時、Aが担任するクラスの生徒が授業中、英語教員に「キモイ」とつぶやいた。 Aはまずその生徒の話を聞き「なぜそんなことを言ったのか」その真意(思い)や事情を確かめようとした。しかし周囲の教師たちから「教師に対する暴言だ」「そういうことを見逃してはならない」と言われてしまう。そればかりか、生徒指導主任は「自分なら首根っこ捕まえてでも、謝りに行かせる」と主張する。その結果、あっという間に学年教師全員でその生徒を呼び出し、謝らせる場が設定されてしまう。Aは担任としてその場に同席したが、「なぜそんな言葉がでてしまったのか」と尋ねることもなく、頭ごなしに謝らせる「指導」に納得のいかない思いが残ったという[6]

この事例は特殊なものではないだろう。いま多くの学校でこうした「指導」に違和感を持たず、ただ、謝らせたことで「指導が成立した、話ができた(納得させた)」と思い込んでいる現状があるのではないだろうか。

 子ども同士のトラブルが起きたときも同様である。トラブルが起きた当事者を個別に呼び出し、お互いに謝らせて終わる。そこに「対話」はない。当事者の子どもがなぜそのような事態に至ったかの深い思いや願いを聞きとろうとすることはあまりない。そして周囲の子どもたちはそうしたトラブル自体がなかったかのようにふるまう。

 また、保護者からの相談や異議申し立てに対しても同様の傾向が見られる。あるサークルで「(我が子Bが)変なあだ名で呼ばれた」という保護者の申し立てに対応したケースが報告された。担任は、まずクラスで「誰がそういうあだ名で呼んでいるのか」を聞き、該当者が分かった時点で、その子を個別に呼んで、Bに謝らせて終わる。そして「Bさんに謝らせました。今後二度とないように注意します」と保護者に報告して終わりにしたという。ここにも、教師と保護者の対話はない。ただ、単にトラブルの表面的「解決」に終始しているようにみえる。

学校全体から“問題の本質に迫り、新しい世界を発見し、互いの関係性が再構築されるような”対話的関係が消えつつあるのである。

 

そもそも対話とは、子どもの願いを聞き取ることであり、子どもの主体性を回復することであり、同時にそれを通して、教師自身の主体性を回復する営みである。私たちは子どもたちを管理する対象ではなく、対等な人格を持つ存在として尊重する意思をまず持たなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

第2章 対話がないのはなぜか

「子どもは失敗しながら育つ」という子ども観に立ち、「どんな力を子どもにつけたいのか」「どんな人間になってほしいか」を考えて教育の仕事に当たるなら、学校には対話があふれるだろう。「対話など必要ない」と思って教師になる人は、おそらくいないはずだ。それなのに、私たちの世界から対話は奪われている。その原因はなんだろうか。

 Aの事例で見られるように、多くの学校で生徒との対話的関係を結ぼうとしても、「そんなことをしていては生徒になめられる」「指導が甘い」「学年の足並みを乱す」などと言われることが多い(とりわけ若い教師に対して)。またはそうしたことを直接的な言葉では言われないとしても、「失敗してはならない」「クラスが荒れたり、授業不成立を招いてはならない」、つまり「ダメな教師と思われたくない」というプレッシャーから、管理的な指導に走らざるを得ない状況も生まれている。また一方、“秩序を守らせること、トラブルを起こさせないこと”に優先順位をおき、学校のゼロトレランス体制に、教師自らが浸かってしまっているということもあるのではないか。ゼロトレランスによる管理的な指導は批判しなければならないが、「●●スタンダード」「学校マニュアル」に従う「指導」はある意味分かりやすく、「楽」であり、困難な状況の中でそれらに飲み込まれていく状況の中に現場教員がいることも事実だろう[7]

また現在、学校は成果主義[8]に覆われている。学校における成果主義は“点数を上げること(学力テストなど)や、見栄えのいい学校を作ること”に価値がおかれている。具体的には、教職員評価システムで「漢字の正答率を〇%上げる」「〇〇会議を年〇回行う」などの指標が数値化され、いかに効率的にそれを達成するかに力点が置かれる。ただでさえ多忙な学校の中で、一人一人の子どもがどんな環境で生活し、どんな思いで生きているかなどに心を寄せる余裕が奪われている。

教育の本質的な成果はそもそも数値化できるものではない。数字には表れなくても、子どもがどう成長し発達しているかを丁寧にそして長い目で見ていくことが求められる。しかし「●●スタンダード」などの統一したやり方や、「〇〇をした場合は~する」「〇〇をしなかったら~させる」などのマニュアルが横行すれば、「この子はなぜこのような行動をするのだろう」という教師の自己内対話(問い)も、その子の行動をクラスの子どもとともに読み解く対話も生まれようがない。後に述べるが、問題を抱えた子どもの思いを聞き取るような対話は多くの遊びや無駄話、何気なく一緒に過ごす時間の延長線上にしか生まれないものである。

 

さらに重要な問題は、「ものごとの成功や失敗はすべて個人の責任に起因する」という自己責任論が広がっていることだ[9]。そこからは「勉強ができないのはさぼっているあいつが悪い」「クラスが落ち着かないのはあなたの指導がダメだからだ」という言説が生まれる。このような状況が進んでいくと、問題の本質に迫ることが困難になる。そして、「勉強ができなくて困っている子どもを放置せずに何とかしよう」「子どもが落ち着かないのはなぜか、同僚と原因を考えながら取り組んでいこう」など、共同して解決しようとする関係性も失われる。こうして対話の世界はますます閉ざされていく。

お互いに弱い部分、大変な状況があることを前提に“みんなでやっていこう”という土台がないところでは、うまくやれない自分や起こってしまったトラブルをオープンにすることができない。それは、大人も子どもも同じである。“人と違ってはまずい”という同調圧力を感じながら、ミスをしないように目立たないように身体をすくめて生きていたら、とても自分の思いを語り合うことはできないだろう。

 

「チーム学校」という言葉をよく聞くが、そこには「どんなチームにしたいか」「チームで何を目指すのか」という(異論を含めた)対話があるのだろうか。校長の号令の下、あらかじめ決まっている目標に向かって、「一丸となって働く」ことだけが求められているのではないだろうか。そうした意味で対話を奪われているのは、子どもだけではなく教師も同じなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第3章 今、学校に対話をどう取り戻すか

 

  • 対話のための関係性づくり

 

 今、学校ではどんな対話が求められているのであろうか。それは教師と子どもの対話であり、子どもと子どもの対話である。また、保護者と子どもの対話でもあり、教師と保護者との対話でもある。それらの土台にあるのは教師と教師の対話(同僚性)である。

こうした対話の世界を豊かにつくり出すことによって、問題の本質に迫り、トラブルを解決したり、子どもたちの自己肯定感を取り戻したりしていきたいものである。まず必要なことは対話を通して“相手の事情”や“抱えている背景や思い”を知ろうとすることである[10]

 しかし、そうは言っても緊張や不安、同調圧力の中に生きている子どもたちと対話的関係を結ぶのは容易なことではない。嶋村は中学校教師であるが、生徒指導加配のために小学校を訪問していた[11]。そこで、授業中にずっと寝ているCと出会う。この学校は業間休みにトレーニング時間が設けられていて、全員が走ることになっている。しかしCはそれにも参加しようとしない。一人残っているCに対して、勤務している中学校でなら“何らかの注意をして、外に行かせなければならない”と思ってしまうところだが、ここでは、そのことにこだわらずに話しかけることができた。すると、中学校の教員というだけで顔を背けていた(と思われる)Cは「ガリレオは99人が違うと言っても1人で真実を追い続けた。みんなと同じことをすることがいつも正しいとは限らない」とか「修学旅行の前に○○さんにコクったんだ」など思わぬ本音を話してくれるようになったという。話が出来る関係性をつくるためには、聞く姿勢としてゆったりと構えることが大切だと気づかされるエピソードである。

河瀬直は荒れた中学校に赴任した際、子どもと一緒に遊ぶことによって、信頼される関係をつくり出した。問題を抱えた子が「先生暇そうだね」と話しかけて来るまで空き教室でふらふらとし、その後も「教室に行け」とは言わずにしばらく一緒に遊ぶのである[12]

また、北山昇は、学校に来ると吐いてしまう『心性嘔吐』と診断された優太が安心して学校生活を送れるようにすることを最優先した。4月は基本的な信頼を確かめ合うために、他学年の視線を気にせずに、ゆるやかに指導を進めたのである。

 

 宿題は、記録はしたが、忘れないようにという要求をしなかった。忘れ物は点検もしなかった。子ども同士で貸し借りできる物は助け合い、私が用意できる物は、学校で準備した。どんなことでも、怒鳴るような強い指導は控えた[13]。特に春の運動会練習の指導に気をつけた。集合や集中よりも、楽しく踊る学年演技「花笠音頭」に心掛けた。運動会の学年練習のその日の評価は子どもたちの感想でまとめた。管理的な評価は意図的に避けた。

子どもたちの固くつくられた学校観を揺さぶり続けた。他の学年からの評判は「うるさい」と言われ、よくなかったが、元気いっぱい、笑顔溢れる、ハイテンションの学年になっていった[14]

  • 対話の実践をどうすすめるか。

 

 次に埼生研に出された二つのレポートから具体的な実践のヒントをつかみだしてみよう。

 

飯塚麻子「ゆっくりほぐしていこう」[15]

いわゆる落ち着いた学校の中で、発言しない子どもたちの心を、ゆっくりと時間をかけて開き、お互いに言いたいことを言い合える関係を築いていく実践である。無理をせずに、子どもたちの状況に寄り添う指導から、どこから関係づくりをすすめたらよいのかが学べる。

 おとなしい集団で、班長が決まらない状況にあったとき、無理に班長を決めずにゲームなどをやる中で人間関係を作っていく。なかなか決まらない一班は、“みんなが1日交代でやること”から始める。班長なしの2人副班長でしばらく過ごすうち、さつきが自分から「私が班長やります」と言ってくる。4月は忙しく、子どもの気持ちなど待っていられない中において教師は駆り立てられている。しかし、子どもの気持ちに寄り添ってゆっくりと時間をかけることで、さつきは決意を新たに、前に出て来た。当初は、班長をやりたくない理由を言語化することが出来なかったさつきだが、時間をかける中で抱えている不安を解消することができたのだろう。ここには言葉としての対話はないが、じっと待ってくれる飯塚の姿勢が伝わり、さつきの不安を決意に変えたという点では既に述べたエンパワメントということも出来ると同時に、会話はなくても「対話」があったと言えるだろう。なぜなら、対話の根幹は相手の思い(不安や願い)を汲み取ることだからである。

 また、声のでない体育委員のさきに対して、飯塚はそれを責めるのではなく、本人たちの意思を確認し、一緒にかけ声をかけたい子を募って練習をする。その後、はじめは「大丈夫だ」と言っていたさきが、不安だった本当の気持ちを作文に書いてくるようになる。

 

 自分を変えたくて体育委員になったけど、失敗ばかりでうまくいきません。みんなに謝りたいけど、そんな勇気もありませんでした。ある日、いつものように失敗して初めて友だちに謝ることができました。「大丈夫だよ」とその言葉と笑顔だけでもどんなに救われたかしれません。(略)私は相手の顔色をうかがっているばかりで、自分は楽しんでいませんでした。(略)クラスのみんなはとても優しくて私を少しでも必要としてくれている人がいることを知ってとてもうれしかったです。

 

さきは、当初「体育委員の仕事が負担になっているんじゃない?」という問いかけに「そうじゃない」と答えている。しかし、さきの目が動揺を表していることを察知した飯塚は「がんばり屋だけに、上手にヘルプを出せない子なのかもしれない」と分析する。そして、さきのプライドに配慮しながら、一緒にとりくめる友だちを組織していく。ここにあるのは、“さきの中にいるさきに働きかける内なる対話”である。こうした例から、向かい合って言葉を交わすだけが「対話」ではなく、レクをしたり、触れあったり、目を見合わせたりすることも広い意味での対話であるということが出来るだろう。

人は不安なことや困っていることでこそつながれる。しかし、4月はじめに不安なことを書かせても「特になし」と書いてくる子が増えている。不安なことをさらけ出すには勇気がいり、何より相手への信頼がいるのである。 私たちは“できない自分、不安を抱えている自分は、情けなくもないし、恥ずかしいことでもない”ことを伝えたい。なぜなら、それは誰もが抱えている共通点だからである。そして学級集団づくりを通して、不安なことを出し合えるような雰囲気をクラスにつくりだす必要がある。また一人一人の子どもに対しては、関係性を築けるまでじっくりと待つ姿勢が求められている。

松本哲平「B組の閉ざされた窓を開いて」[16]

 荒れていて、“生徒が何をするかわからない”と窓をわずかにしか開けることができないようにしている学校に赴任した松本が、自分たちが置かれている状況をおかしいと気づき、自ら「窓を開けて欲しい」と言えるようになるまで、生徒の成長を促していく実践である。

 松本はまず、学校づくりの視点で、同僚の教師と同じ目線に立ちつながっていく[17]。話ができる関係になると、同僚とだけでなく校長とも対話して、悩みや思いを共有し、学校づくりを進めていく。腹を割って話してみれば、生徒や教育に対する思いは共通するものがある。また、若い松本の理想に燃える姿や問題提起に共感することもあっただろう。立場や考え方が違っても“子どもの問題(発達と成長)を軸にすればわかり合える”と信じてアプローチしていく松本の姿勢には見習うべき点も多い。

 また、松本は課題を抱える生徒に対しても、寄り添いつづけ、粘り強くクラスで共に考え、対話の機会を作っていく。そうした中で、子どもたちは自分から悩みを打ち明けるような共感的な関係性をつくりあげていく。卒業式も迫ったころ松本は“学年代表のリーダー集団による、窓を開けるかどうかの討論”に参加する。松本は「一年間君たちをみてきたけど、君たちは変わったと思うよ。だってあの感動する体育祭や合唱祭、信頼関係を深めてきたわけでしょ。そんな信じ合える集団が、なぜいらだちを乗り越えられない、別の方法で解決する術を知っているはずだよ」と投げかける。そうした生徒を信頼し続けた思いが松本一人ではなく学年教師や校長にまで広がっていると感じたからこそ、リーダーたちはあらためてこの問題をクラスに持ち帰り、次のような決断をするのである。

 

「私たちは話し合ったすえ、窓を開けることにしました。これまでの学校生活で私たちは成長してきたと感じています。最後になぜ(いまさら)という人もいましたが、最後だからこそ、窓を開けて終わりにしたい。みんなを信用したい」 ※( )は筆者による加筆

 

リーダーたちの出した結論は「窓を開けたことに関する問題が起きたらその時は、罰で対応するのではなく、仲間を信じ話し合って解決したい」というものであった。「B組の閉ざされた窓」とは、メタファー(暗喩)である。その窓は教師や生徒の関係性が閉ざされた窓を指している。その窓を開けたのは、信頼の上に立つ様々な「対話」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわりに-対話を希望に-

 

 本基調で紹介した実践に共通することは、「どうせ無理だ」とあきらめないことであり、どんなに状況が厳しくても、対話の糸口をあきらめずにつかみ続けようとした教師たちの姿である。それによって新しい世界を開くことが可能になっている。対話は“子どもの中にいるもう一人の子どもを発見し、それに働きかけること”でもある。表面に表れている言動のみを対象にするのが「会話」や「マニュアル指導」だとするならば、目に見えないこと、数値には表れないことを大切にするのが対話である。それは個と個の関係だけのものではなく、“対話によって、自分と社会がつながること”を意味している[18]

現在の職場状況は多忙を極め、管理体制が厳しく、そうした対話の世界をつくりだすことは容易ではない。しかし、そうした中でもしたたかにしなやかに生きている教師たちは私たちの周りに沢山いる。ゼロトレランスや管理体制に覆われている職場であっても、「教師たちは多様でしたたかに実践をしている。時に意見が対立することはあっても、根本では通じ合うことも少なくない(笠原昭男)[19]」という。もちろん、教育の条理に合わない問題や不合理な現実を安易に受け入れてはいけないが、「あの教師はこうだ、あの考え方はこうだ」と、教条主義的かつ一方的に批判することは、私たち自身で対話の道を閉ざすことにつながる。

今こそあらゆる人たちとつながりながら、勇気を出して、学校に対話の世界を切りひらこう。繰り返しになるが“不安を出せず、自分だけが悩んでいる”と思い込んでいるのは実は子どもだけではなく、教師も同じなのだ。成果主義に飲み込まれず、同調圧力につぶされることなく、対話の世界を広げていくこと。それは教師として生きていくための「たたかい」ではないだろうか。私たちは、なぜ何のために教師という道を選んだのか。その原点に立ち返り、確信を持って現場に対話の世界をつくり出したい。時にはゆらぎながらでも「対話」の道を模索していきたい[20]

 

 私たちは内なる自分に問い続ける。目指すのは“見栄えのいい、すぐに成果が出る目標”の達成なのか、“長い時間を必要とする人格の完成、民主的な社会の担い手の育成”なのか。そして、子どもたちに「世界は変えられる」「話すことで人はつながれる」と教えたいなら、まずは私たち自身が自分の周りから出来ることをやっていきたい。小さなことの積み重ねが、大きな変化をもたらすことを信じて、少しずつ。かつて坂本光男が述べたように「教育とは希望を育てること」に他ならないのだ。

 

教室や職員室に対話を取り戻すこと、それは本来あるべき世界を取り戻すことであり、子どもたちと共にこの世界に希望を生み出すことなのである。

 

 

文責 基調小委員会(嶋村純子・飯塚麻子・渡辺雅之)

 

[1]「話し合いのあるクラスをつくる」 対話・討論・討議を深める 中学校分科会基調,2013年全生研全国大会

[2]とは言うものの、会話の一形態である「おしゃべり」「無駄話」の世界を大切にしなければならないのは言うまでもない。対話と会話の境界線は実は曖昧なものであり、会話から対話にどう発展させるかが実践的なテーマになっている。

[3]エンパワメント-Empowermentは湧活(勇気を湧き出すこと)、または勇気のシェア(共有)と訳されることが多い。他者への適切な働きかけによって夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい生きる力を湧き出させることを指す。ただし、それは一方的なものではなく、働きかけたものが勇気づけられるという双方向な関係性にある。

[4]教育学者の佐藤学は「寛容がゼロなのではなく、教育がゼロなのである」とゼロトレランス体制を厳しく批判している。

[5] 「特別の教科 道徳」では「主体的・対話的で深い学び」(教育課程企画特別部会資料,平成28年7月11日)が打ち出されているが、実際には決められた枠の中で定められた徳目に誘導するような実践が多く示され、本来、私たちが追求したい「新しい価値」とは違う文脈で対話という言葉が使われている。

[6] Aはその「指導」のあと該当の生徒と個別に話をし、「キモい」と言った理由を丁寧に聞き取っている。順番が逆なのではないかという思いは今も残っているという。

[7] 一定の秩序を維持し、そのことによって“大勢の子どもたちの学習する権利が守られる”という側面もある。また、「どう指導していいか分からない」「指導がバラバラでは、保護者や子どもたちの不信を招く」という声に応える必要もある。よって私たちはこれらを批判するならば、マニュアルやゼロトレランスに依らない指導を理論的かつ実践的に示していく必要もある。これは今後とも重要な研究課題である。

[8] 成果主義はもともと企業経営やそれに伴う人事管理から生まれた。

「仕事の成果に応じて給与昇格を決定する人事方針のこと。仕事で成果をあげれば給与アップや昇格が約束される。逆に、成果をあげられなかったものは、給与の現状維持もしくは給与ダウンとなる。出典 ASCII.jpデジタル用語辞典」目に見えるものを尺度にするために、公平感や透明感を感じることができ、今では広く企業社会や市場世界に受け入れられている。

[9] 自己責任論は、“優勝劣敗を是とする新自由主義”的な考え方が広がる中でさらに強まっている。「いじめられた子にも問題がある」「生活保護受給者は怠け者である」など。

[10] この場合の相手とは、子どもだけではなく、同僚教師や保護者なども含むことは言うまでもない。

[11]加配と言っても実質は単に小学校の現状を観察するだけの役割である。

[12] 「直之は本当にいいやつなんです」生活指導と学級集団づくり③中学校 

[13] 北山は子どもの学習課題をつかむために、誰が宿題を忘れたかは記録(メモ)したが、それを元に該当の子どもに“宿題を忘れないように”という要求をしていない。忘れ物も同様で “子どもは失敗しながら、ゆっくり育つ”という人間観にたっている。

[14] 「教室をぼくらの秘密基地にするために 子どもたちを追いつめるものは何か 12/6」与野サークル及び生活指導2018年8,9月号

[15] 「ゆっくりほぐしていこう」全生研大会2017.一般分科会「中学1年生の集団づくり」レポート

[16] 「B組の閉ざされた窓を開いて」2017年埼生研県学校レポート

[17] 松本は自身の禁煙が長いが、キーパソンの同僚(生徒指導担当)と話すために、あえてタバコ部屋に行って「久しぶりのタバコは上手いですね」と喫煙しながら会話している。

[18] 自分の周りで起きる出来事は、すべて大きな社会の中で起きている出来事とつながっている。本質的な対話というものは、起きた問題を個人的なものとして閉じ込めることがない。むしろ、社会が抱える課題とつながっていくものなのではないだろうか。

[19] 埼生研常任委員会「基調提案検討のための学習会」における発言,2018.4.28

[20]迷い、ゆらいでいてもいいのではないだろうか。ゆらいでいると感じるのは自分自身と向き合い、内なる他者と対話をしようとしているからに他ならないからである。